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保育所保育指針の歴史と今【第1回】いつから指針はあるのか|戦後20年間の空白

12 時間前
読了時間: 9分

まずは解説動画をご覧ください(約18分)


▲ 保育所保育指針の歴史と今 第1回。指針がなかった時代の保育所をたどります。


いきなりですが、ひとつ質問をさせてください。

保育所保育指針は、いつからあると思われますか。

戦後すぐでしょうか。それとも、もっと最近でしょうか。

答えは、昭和40年。西暦でいうと1965年です。終戦が昭和20年、1945年ですから、戦争が終わってから20年も経ってから、保育所保育指針は生まれたことになります。

ということは、その20年のあいだ、保育所は保育所保育指針がないまま運営されていたわけです。

では、指針がなかった時代、保育の現場はいったい何を拠り所にしていたのでしょうか。

今回から「保育所保育指針の歴史と今」というシリーズを始めます。第1回は、指針がなかった時代の話です。




そもそも保育所保育指針とは何か

本題に入る前に、言葉の確認をしておきます。

保育所保育指針とは、保育の内容ややり方について、国が全国共通の方向性を示したものです。北海道の保育所でも沖縄の保育所でも、こういう考え方で保育をしてくださいね、という道しるべ。そんなイメージで読み進めていただければと思います。

私たちが毎日の保育の拠り所にしている、あの指針。その物語の出発点をたどります。




保育所のルーツは託児所だった

指針ができるもっと前、日本の保育がどこから始まったのかを、少しだけさかのぼってみましょう。

もともとの保育所のルーツは、託児所でした。貧しい家庭の子ども、農作業で忙しい時期の子ども、工場で働くお母さんの子ども。そうした子どもたちを預かる場所です。

たとえるなら、地域の大人が手分けして子どもを見守る。そんな場所だったわけですね。

ここに大事なポイントがあります。

この時代の保育は、教育というより、生活を支えるための保育だったということです。お勉強をさせる場所というよりも、子どもの命と暮らしを守る場所。これが日本の保育所の原点です。




焼け野原からの再出発

さて、時代は終戦直後に飛びます。昭和20年、1945年。

東京では大空襲が起こり、全国各地に爆弾が落ち、日本は焼け野原からの再出発を迫られていました。

この時期、子どもをめぐる状況は本当に深刻でした。空襲や原爆で親を失った戦災孤児。行き場をなくして町をさまよう浮浪児。当時の記録には、保護された子どもや路上の子どもの数が残されていますが、それも把握できた範囲の数にすぎません。

そしてお母さんたちも、生きるために働かなければなりませんでした。お父さんを戦争で亡くしたご家庭が多かったからです。

つまり、子どもをどう守るか。働く親の子どもをどこで預かるか。これが国全体の切実な課題になっていたんですね。

想像してみてください。食べるものも住む場所も足りない。そんな中で、子どもたちの命をどう守るか。当時の大人たちがどれだけ必死だったか。


保育の歴史って、こういう「守りたい」という気持ちから始まっているんですね。



法律の土台ができていく

こうした状況の中で、国は法律の整備を急ぎます。ここからが、保育所の土台ができていく流れです。

戦争が終わってまもなく、厚生省という役所の中に、子どもの福祉を担当する児童局が置かれます。

そして昭和22年、1947年。ここで大きな法律が生まれます。児童福祉法です。

この法律によって、保育所は初めて、法律に基づく施設として位置づけられました。

つまり、こういう流れです。戦後の混乱で子どもを守る必要が高まった。だから児童福祉法ができた。その法律の中に保育所がきちんと書き込まれた。だからこそ保育所は、国が認めた施設になった。

この順番が、後々効いてきます。




昭和23年、2つのものが生まれる

さて、ここからが今回の山場です。

昭和23年、1948年。この年、保育所にとって大事なものが2つ誕生します。


ひとつ目|児童福祉施設最低基準

これは、保育所をはじめとする施設が最低限守るべきルールを定めたものです。

ここで初めて、保育所の保育時間は1日8時間を原則とすること、健康のチェック、自由遊び、お昼寝といった保育の中身が、大まかに示されました。

ただし、名前のとおり「最低基準」です。これだけは守ってくださいね、という最低のライン。保育の中身を細かく導くというよりも、施設の枠組みを決めるものでした。


ふたつ目|保育要領

同じ昭和23年、今度は文部省から「保育要領」というものが出されます。サブタイトルは「幼児教育の手びき」。倉橋惣三先生たちが中心になって作ったものです。

対象は幼稚園だけではありません。保育所も家庭も含めて、幅広く想定されていました。

中身は「楽しい幼児の経験」として12の項目が示されています。見学、リズム、休息、自由遊び、音楽、お話、絵画、製作、自然観察、ごっこ遊び、健康保育、年中行事。

子どもにこんな経験をさせてあげると、すくすく育ちますよ。そんな優しい手引き書です。命令でもルールでもなく、ヒント集に近いものだったと思っていただくといいかもしれません。




それで十分だったのでしょうか

ここで少し立ち止まって考えてみたいのです。

最低基準もできた。保育要領もできた。では保育所は、もう十分な拠り所を手に入れたのでしょうか。

実は、そうとは言えませんでした。

まず保育要領は、どちらかというと幼稚園を中心に考えられた手引きでした。そして「試案」。つまり叩き台という位置づけだったんですね。

保育所には、保育所ならではの事情があります。0歳の赤ちゃんからお預かりする。保育の時間も長い。生活そのものを支える。そういう保育所だけの拠り所としては、まだ十分とは言えなかったと考えられています。

一方の最低基準は、あくまで最低限のルールです。保育の中身を豊かに導くものではありませんでした。

つまり保育所は、この時点では、自分たちだけの保育の中身をきちんと示してくれるものを、まだ持っていなかったのです。

ここに、大きな空白がありました。




今回の流れを整理します


出来事

昭和20年(1945年)

終戦。焼け野原からの再出発

昭和21〜22年

厚生省に児童局が置かれる

昭和22年(1947年)12月

児童福祉法が公布され、保育所が法律上の施設に

昭和23年(1948年)

児童福祉施設最低基準が定められる

昭和23年(1948年)

文部省から保育要領が出される

昭和40年(1965年)8月

保育所保育指針がつくられる


戦後すぐ、保育所保育指針はなかった。子どもを守ることが国全体の切実な課題だった。昭和22年、児童福祉法で保育所は法律上の施設になった。昭和23年、最低基準と保育要領が登場し、前身となった。

でも、保育所だけの指針は、まだなかった。

この空白こそが、次の物語の出発点になります。保育所には保育所のための指針がいる。その声がやがて、昭和40年の初めての保育所保育指針へつながっていくのです。




なぜ20年もかかったのでしょうか

ここからは、収録を終えたあとに私が考えていたことを書き添えます。

いま皆様が周りを見渡せば、家が建っていて、ビルがあるところもあるかと思います。けれども1945年の敗戦当時、日本は本当に焼け野原でした。空襲で家をなくした方もいらっしゃいました。

食べ物も戦地へ持っていかれましたから、今のようにコンビニがあったり、スーパーがあったりなんて、まったくありません。配給制度の中で食事をもらって食べていた。日本はどん底にあったわけです。

1945年以降、最初に起こったのは食料品の不足です。今の比ではありません。戦争から兵隊たちが帰ってきて人口も増えるけれど、食事自体がなかった。お金の価値も低い。物がない。でも需要はある。ですから闇市なんていうものがあって、とにかく食べるのに必死だった。家もなかった。

その中で、戦後の日本を復興させるために、当時の大人たちは必死に生きていた。家を守るために、子どもを守るために、家族を守るために働いた。

働くには、子どもを預けなければならなかった。 その中で保育所というものが生まれたんだな、と、この動画を作りながら思っておりました。

ですから、その時にはまだ、教育というところまでは進んでいませんでした。明治維新以降、幼稚園につながる教育は入ってきていましたけれども、まだまだ富裕層しか行けないという時代でしたからね。

小学校が義務化されたり、保育所に当たり前に行くようになったりというのは、時代が進んで日本が少しずつ豊かになったうえでのことです。

保育所保育指針ができた昭和40年は、東京オリンピックの翌年にあたります。日本が本当に復興してきて、お金の面でも少し余裕が出てきた。そこでやっと整備されていった、ということなんですね。

ですから戦後の1945年から1965年までの20年間については、とにかく受け入れる、家庭を支える、保護者を支える。先ほど託児所という言葉が出てきましたけれども、本当にそういう扱いだったんだな、というところです。




このシリーズでやりたいこと

このシリーズでは、指針ができたところからは、条文なども細かく見ていこうと思っています。

そして何年かして指針が改定されたというところが出てきますが、改定されたのはどんな時代の背景があったのか。それが指針にどういう影響を与えていったのか。その変遷を追っていきます。

さらに、来年度からまた新しい指針が始まりますので、今ある指針のところまで時代をさかのぼった後は、国の専門委員会の議論を1回ずつ、全10回分すべて翻訳していきたいと思っています。

この夏に指針の改定内容が大方固まるという話を聞いておりますので、それが固まるところを最終的なゴールラインにして、そこまで解説していきます。


保育所保育指針ってこういう風にできていて、今こうなっていて、そして今度はこういう風になってくるんだ。それが人に語れたり、自分でちゃんと腑に落ちて説明できたりするように。

そんな配信にしていきます。指針に興味のある方、指針を大切にされている方は、ぜひご覧いただければと思います。

次回はいよいよ、初めて保育所保育指針が生まれる瞬間です。なぜ昭和40年に保育所だけの指針が必要とされたのか。そして、どんな意図で作られたのか。そこを一緒に見ていきます。



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