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幼稚園教育要領の歴史と今【第2回】日本最初の幼稚園は一度却下されていた|明治9年 東京女子師範学校附属幼稚園

7 時間前
読了時間: 11分

まずは解説動画をご覧ください(約17分)


▲ 明治9年(1876年)に開かれた日本最初の幼稚園が、どのように生まれ、誰が動かしたのかをたどります。




前回のおさらい

前回の第1回では、「幼稚園」という言葉がドイツで生まれた1840年から、日本の明治初期までをたどりました。

明治5年(1872年)の学制には「幼稚小学」という構想がはっきり書かれていたのに、実現しませんでした。小学校自体の就学率が3割から4割で、そこまで手が回らなかったからです。

そして明治8年(1875年)12月、京都の柳池小学校の中に「幼稚遊嬉場」が開かれました。ただ、1年半ほどで消えてしまいました。

今回はいよいよ、明治9年 11月の東京女子師範学校附属幼稚園です。日本最初の幼稚園として教科書に載っている、あの園です。

ただ、今回いちばんお伝えしたいのは、開園の日付ではありません。この幼稚園、一度却下されているんです。




日本最初の幼稚園は、一度却下されていた

文部省がまとめた『学制百年史』には、こう書かれています。


文部省がはじめて幼稚園開設の伺いを太政官に提出したのは明治八年七月七日であるが、この伺いは許可されず、

ここで用語を1つ。「太政官(だじょうかん)」は、明治初期の政府の最高機関です。今でいえば内閣にあたります。文部省が「幼稚園をつくりたい」と上にあげて、差し戻されたということです。

それでも、文部省はあきらめませんでした。


同年八月二十五日再び伺いを提出して九月十三日にはじめて開設が許可され、文部省は九月十五日東京女子師範学校に付属幼稚園の開設許可を布達した。

明治8年

できごと

7月 7日

文部省が太政官に伺いを提出 → 許可されず

8月 25日

再び伺いを提出

9月 13日

開設が許可される

9月 15日

文部省が東京女子師範学校に附属幼稚園の開設許可を布達

7月に出してだめで、8月に出し直して、9月に通る。ここまでおよそ2か月です。


なぜ最初は通らなかったのか

その理由は、私が確認できた資料の中には書かれていませんでした。ですので、ここは推測せずに事実だけをお伝えします。

ただ、第1回でお話しした状況を思い出していただくと、想像はつくかと思います。小学校の就学率が3割から4割。国も地方もお金がない。そこに「幼稚園をつくりたい」という申請が上がってきたら、どうでしょうか。

日本の幼稚園は、そういう場所からスタートしているんです。




なぜ女子師範学校の中に置いたのか

では、その幼稚園はどこに置かれたのか。東京女子師範学校、現在のお茶の水女子大学です。

ここで用語を1つ。「師範学校」は、教員を養成するための学校です。今の教育大学や教育学部にあたります。

東京女子師範学校は、明治8年にできたばかりの学校でした。日本で最初の、女性の教員を養成する学校です。

では、なぜ幼稚園を女子師範学校の中に置いたのでしょうか。

この幼稚園は、子どもを保育する場であると同時に、保育する人を育てる実習の場だったんです。

たとえば大学病院を思い浮かべてください。患者さんを治療する場でありながら、医師を育てる場でもあります。東京女子師範学校附属幼稚園は、日本の幼児教育における「大学病院」にあたるものとして設計されていたわけです。

この設計が、のちに何を生むのか。この記事の後半で、もう一度出てきます。




日本最初の幼稚園を動かした人たち

立場

人物

どんな人か

監事(今の園長にあたる立場)

関信三(せき しんぞう)

お寺の出身。イギリスに渡り、帰国後は東京女子師範学校の英語教師に

首席保母(ほぼ)

松野クララ

ドイツから来た女性

保母

豊田芙雄(とよだ ふゆ)

水戸藩士の妻。夫を亡くしたあと学問を続け、教員に

保母

近藤濱(こんどう はま)

豊田芙雄とともに保母を務めた

「保母」は、今でいう保育者のことです。




関信三|幼稚園の考え方を日本語にした人

関信三は、明治5年に東本願寺から派遣されてイギリスへ渡り、明治7年に帰国。東京女子師範学校の英語教師となり、明治9年に附属幼稚園の初代監事になったと記録されています。三河、今の愛知県の出身で、法名は猶竜(ゆうりゅう)、もとはお寺の僧侶です。

しかも関信三は、開園の4か月前、明治9年 7月に『幼稚園記』という本を翻訳して出しています。アメリカで出された本の翻訳で、これによってフレーベル流の幼児教育の理論と方法が日本に紹介されたとされています。


松野クララ|ドイツから来た首席保母

松野クララは、ドイツの女性です。ベルリンに留学していた日本の官吏・松野礀(はざま)と知り合って来日し、明治9年に結婚。同じ年に附属幼稚園の首席保母となり、日本人の保母を指導しました。明治11年には、新しくできた保母練習科で保育法を教えたと記録されています。


豊田芙雄|夫を亡くし、学問を続けた人

日本人の保母、豊田芙雄の人生もすごいんです。

幕末の思想家・藤田東湖の姪で、水戸藩士の豊田小太郎と結婚しましたが、慶応2年(1866年)、夫は暗殺されます。芙雄は再婚せず、夫の遺志を継いで漢学と洋学を学び、近所の子どもを集めて塾を開きました。

そして明治8年、東京女子師範学校の教員として招かれ、翌年、附属幼稚園の保母になります。

整理すると、お寺から来た僧侶、ドイツから来た女性、そして夫を暗殺された水戸藩士の妻。この人たちが、日本最初の幼稚園を始めたんですね。




明治9年 11月 16日、はじまりの日

開園までの流れを見ていきます。

明治9年

できごと

6月

東京女子師範学校が、保育の方法と建物の設計について定める

11月 6日

園舎ができあがる

11月 14日

文部省が幼稚園の開設を布達

11月 16日

開園式

前の年の9月に許可が出て、建物を建て、保育の方法を決めて、翌年の11月に開園。学会の資料には、許可から急ピッチで園舎の工事が進められたと書かれています。

迎えた園児は、70名あまり。学会の資料には75名程度と記されています。

明治9年 11月 16日。この日が、日本の幼稚園の誕生日ということになります。




園児は「上流階級の子女」が大部分だった

ただ、ここで終わりにすると、いちばん大事なことを見落とします。この70人あまりは、どんな子どもたちだったのでしょうか。

『学制百年史』には、こうあります。


開園当初の付属幼稚園では、園児は上流階級の子女が大部分を占めていた。

ここで、前回の話を思い出してください。フレーベルはなぜ「庭」という言葉を選んだのか。子どもは庭の花のように育つ、と考えたからでした。すべての子どもが、それぞれの花を咲かせる。それが「キンダーガルテン」という名前に込められた願いでしたよね。

その考え方が日本に届いて、最初に開かれた「庭」は、都市の恵まれた家庭の子どもの場として始まったのです。

これは、誰かを責める話ではありません。当時、幼稚園を維持するにはお金がかかりました。国も地方も、小学校で手いっぱいでした。だから、費用を負担できる家庭の子どもから始まった。制度としては、そうならざるを得なかったんですね。

ただ、今の保育の現場に立っていらっしゃる方なら、この一文の重さが分かると思うんです。

よい保育を、必要な子どもに届ける。制度が生まれた瞬間から、その難しさは同じ形でそこにあったわけです。


ここから、日本の幼児教育の分かれ道が始まる

都市の恵まれた家庭のための幼稚園。その一方で、働かなければ食べていけない家庭の子どもは、どこへ行くのか。

この問いが、明治15年(1882年)、文部省による「簡易幼稚園」の奨励、つまり貧しい家庭のための幼稚園という動きにつながっていきます。

そしてもっと先、幼稚園と保育所という2つの流れが分かれていく出発点も、実はここにあるんです。この話は、第4回でじっくり扱います。




開園の1年後に行われた「開業式」

開園の翌年、明治10年(1877年)11月 27日。『学制百年史』には、こう記されています。


なお翌十年十一月二十七日には皇后宮および皇太后宮の行啓があり、幼稚園開業式が盛大に挙行された。

ここは混同されやすいところです。明治9年 11月 16日の「開園式」と、明治10年 11月 27日の「開業式」は、別の式です。

なぜ、開園の1年後に、改めて盛大な式を行ったのか。なぜ、皇后と皇太后が訪れたのか。

それは、この幼稚園が国の事業だったということです。

文部省が太政官に伺いを出し、2度目で許可を得て、官立の女子師範学校の中に置かれた。そして開園の翌年、皇室が訪れる式が行われた。

国がつくった事業には、予算がつきます。人がつきます。そして、記録が残ります。だからこそ私たちは今、150年前の日付をこうして確かめられるわけです。

ここが、京都の幼稚遊嬉場との決定的な違いです。京都は地域が試みて、1年半で消えました。東京は国がつくり、そして残ったんです。




保育者を育て、全国へ広げる「装置」だった

さて、前半で「覚えておいてください」と申し上げた話に戻ります。

この幼稚園は、保育する人を育てる実習の場でもありました。この設計が何を生んだのか。地方への広がり方が、実に象徴的なんです。

時期

できごと

明治11年

東京女子師範学校に保母練習科ができる

明治12年 4月

鹿児島女子師範学校附属幼稚園が開設。東京の豊田芙雄が鹿児島県に招かれ、その指導のもとで開設された

明治12年 5月

大阪府立模範幼稚園が開設。大阪府から派遣された2人の小学校の女性教員が、東京女子師範学校附属幼稚園で保育方法を学んで帰り、その後開設された

明治13年 5月

大阪で、これを模範として愛珠幼稚園が開設

お気づきでしょうか。

東京で保母を育てる。その保母が地方へ招かれる。あるいは、地方から人が学びに来る。そして、園ができる。

つまり東京女子師範学校附属幼稚園は、日本最初の幼稚園であると同時に、幼稚園を増やしていくための装置だったんですね。

数字で見てみましょう。

年

園数

幼児数

明治13年(1880年)

5園

426人

明治18年(1885年)

30園

1,893人

5年で、園は6倍、子どもは4倍あまりになりました。

ちなみに余談ですが、この幼稚園には、のちに作家となる永井荷風(ながい かふう)が、明治17年(1884年)からおよそ1年通っていたと伝えられています。




今日のまとめ

  1. 日本最初の幼稚園は、一度却下されています。明治8年 7月 7日の伺いは通らず、8月 25日の再提出で、ようやく9月 13日に許可されました

  2. 置かれた場所は、できたばかりの東京女子師範学校。子どもを保育する場であると同時に、保育する人を育てる場として設計されていました

  3. 明治9年 11月 16日に開園。動かしたのは、お寺から来た僧侶の関信三、ドイツから来た松野クララ、そして豊田芙雄、近藤濱でした

  4. 園児は上流階級の子女が大部分。ここから、日本の幼児教育の分かれ道が始まります


ひとことで言うと、こうなります。

日本の幼稚園は、2度目の申請でようやく生まれた。そして最初の園児は、都市の恵まれた家庭の子どもたちだった。




次回は、最初の保育内容の基準

次回の第3回は、最初の保育内容の基準です。

明治10年 7月、東京女子師範学校は幼稚園規則を定めます。そこに書かれた保育の科目は、「物品科」「美麗科」「知識科」の3科。そしてその下に、25の子目が並びます。

「五彩球ノ遊ビ」「三形物ノ理解」「貝ノ遊ビ」……。何のことだと思われますか。これが、日本で最初の保育内容です。


収録を終えて

1840年、日本ではまだ江戸時代だったころにドイツで始まった幼稚園が、明治の10年ほどのあいだに、一度却下されながら日本でも始まりました。今回は、そこに携わった人たちと、どのように広がっていったのかをお話ししました。

次回は、いよいよ保育内容の基準です。まだまだ明治時代のお話が続きます。




「保育の仕事の土台を、職員と一緒に学び直したい」園長・主任の先生へ

日本最初の幼稚園は、子どもを保育する場であると同時に、保育する人を育てる場でした。150年たった今も、保育の質を支えているのは、やはり人を育てる仕組みです。

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