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幼稚園教育要領の歴史と今【第4回】学校の外に置かれた幼稚園|明治15年の簡易幼稚園と、2つに分かれた道

12 時間前
読了時間: 12分

まずは解説動画をご覧ください(約20分)


▲ 明治12年(1879年)から明治17年(1884年)、幼稚園が学校の外に置かれ、2つの道に分かれていった6年間をたどります。


保育の中身から、制度の話へ

前回の第3回では、明治10年 7月の幼稚園規則を読みました。保育の科目は物品科・美麗科・知識科の3科。その下に25の細目があって、うち19が恩物だった。そして実際の保育は、週単位の計画と時間割に基づく一斉の活動だった、というお話でしたね。

今回は、保育の中身の話から離れて、制度の話です。

明治12年から17年まで。この6年間に、日本の幼稚園の立ち位置が決まります。そして、その決まり方が、今の私たちの仕事にまでまっすぐつながっているんです。

幼稚園と保育所は、なぜ別々の制度になったのか。保育所保育指針と幼稚園教育要領は、なぜ2つに分かれていったのか。その起点が、この6年間にあります。

しかも、偶然ではありません。行政が意図して、2つに分けているんですね。




明治12年、幼稚園は「学校」ではなかった

文部省がまとめた『学制百年史』には、こうあります。


明治十二年九月に公布された「教育令」は、幼稚園を学校と区別して取り扱い、学校・幼稚園・書籍館等は公立私立の別なくすべて文部卿の監督内にあるものと定めた。

用語を2つ。「文部卿(もんぶきょう)」は、今の文部科学大臣にあたる役職です。「書籍館(しょじゃくかん)」は、図書館のことです。

もう一度、並びを見てください。学校、幼稚園、書籍館。

幼稚園は、学校ではなかったんです。学校と区別されて、図書館と同じ並びに置かれた。もちろん、図書館を軽んじているわけではありません。ただ、学校教育の体系の中に入れてもらえなかった、ということは押さえておきたいところです。

第1回を思い出してください。明治5年の学制では、幼稚小学は小学校の一種として書かれていました。実現はしませんでしたが、位置づけとしては学校の中にあったんですね。それが明治12年に、外に出されました。




学校の外なのに、手続きは学校と同じ

ところがです。ここが面白いところです。

教育令に基づいて、明治12年 11月、文部省は幼稚園の設置・廃止・認可について、次のように布達しました。


  1. 公立幼稚園を設置・廃止しようとするときは、府知事県令の認可を経ること

  2. 私立幼稚園を設置・廃止するときは、府知事県令に開申(届け出)すること

  3. 公立幼稚園の保育法は、文部卿の認可を経ること

  4. 私立幼稚園の保育法は、府知事県令に開申すること


保育の方法まで、認可や届け出の対象なんです。『学制百年史』は、この布達をこう評しています。


この布達は、幼稚園を学校と別個のものとしながらも、学校と同様に扱ったものである。

明治13年 12月には教育令が改正され、この内容が教育令の本文に取り込まれます。明治14年 1月には「府県立学校幼稚園書籍館等設置廃止規則」も定められ、幼稚園を設置するときには、目的、保育の課程、保母の人数や給与、経費の収支、保母の学力と履歴などを書いた書類を添えることになりました。

学校の中には入れない。でも、書類は学校と同じだけ出させる。

これ、今の保育現場でも心当たりがある構図ではないでしょうか。制度上の位置づけはあいまいなのに、求められる手続きだけはきっちりしている。明治12年から、そうだったわけです。




明治15年、文部省が奨励した「簡易幼稚園」

そして、今日いちばん重要な文章が出てきます。明治15年(1882年)12月です。


明治十五年十二月、文部卿は各府県の学務課長に、文部省直轄の幼稚園は規模が大きすぎるため都会でないと設置しにくいので、もっと簡易な編成の幼稚園を新設し、貧民力役者等の子どもで父母がその養育を顧みる暇のない者を入れるようにすべきであるとして簡易幼稚園を奨励した。

1つずつ確認させてください。

「貧民力役者(ひんみんりきえきしゃ)」とは、貧しい人、そして力仕事で日々を暮らす人のことです。

そして「父母がその養育を顧みる暇のない者」。お気づきでしょうか。今の言葉に置き換えると、「保育を必要とする子ども」のことですね。

明治15年、文部省は2種類の幼稚園を想定しました。1つは、文部省直轄のような本格的な幼稚園。規模が大きく、都会にしか置けない。もう1つは、簡易な編成の幼稚園。働かなければ食べていけない家庭の子どもたちのための場所です。

第2回の最後に、私はこう問いかけました。上流階級の子女が通う幼稚園。その一方で、働かなければ食べていけない家庭の子どもは、どこへ行くのか、と。

文部省は、その問いに答えを出していたんです。明治15年に、「別の場所へ」と。




明治17年、「学齢未満の幼児を小学校に入れてはならない」

2年後、明治17年 2月。文部省は、もう1つの達(たっし)を出します。


学齢未満ノ幼児ヲ学校ニ入レ学齢児童ト同一ノ教育ヲ受ケシムルハ其害不尠候条右幼児ハ幼稚園ノ方法ニ因リ保育候様取計フヘシ

今の言葉にすると、こうなります。


学齢に達していない幼児を学校に入れて、学齢の児童と同じ教育を受けさせるのは、その害が少なくない。だから、そういう幼児は幼稚園の方法によって保育するように取り計らいなさい。

「其害不尠(そのがいすくなからず)」。強い言葉ですね。そして『学制百年史』は、文部省がこれを実現する方法として、明治15年に示した簡易幼稚園による方法もあることを述べていた、と記しています。


この達の、2つの読み方

この達には、2つの読み方ができると思うんです。

1つ目の読み方。幼児期には、幼児期の方法がある。小学校と同じことをさせてはいけない。これは、今の幼稚園教育要領が言っていることとまったく同じです。明治17年に、この認識があった。私はここに、正直、感動しました。

2つ目の読み方。しかし同時に、これは学齢未満の子どもを小学校から追い出す通達でもありました。当時の就学率は4割程度。小学校に幼い子どもが混じって座っている風景が、実際にあったわけです。その子たちの行き先として示されたのが、簡易幼稚園でした。

どちらの読み方が正しいのか。私は、どちらも同時に正しかったのだろうと考えています。ただ、これは私の見方です。資料が語っているのは、達が出たという事実だけです。




「教育の場」と「預かる場」|二層構造が生まれた

整理します。明治15年から17年にかけて、日本の幼児のための施設は、はっきり2つに分かれました。


本格的な幼稚園

簡易幼稚園

場所・規模

都市にあり、規模が大きい

簡易な編成

通う子ども

上流階級の子女が大部分

貧民力役者等の子ども。父母がその養育を顧みる暇のない者

中身

恩物中心の25の細目

「預かる」ための場所

性格

教育の場

では、これは何の場か

左は教育の場です。では、右は何でしょうか。父母が養育を顧みる暇がないから預かる。これは、教育というより「養護」です。

『学制百年史』は、この一連の動きをこう評しています。


このように文部省は学齢未満の幼児を小学校に就学させることを禁止し、簡易な幼稚園の施設を奨励したが、このことはその後の幼稚園の発達と重要な関連をもっているといえよう。

「その後の幼稚園の発達と重要な関連をもっている」。文部省の公式の歴史書が、そう書いているんですね。

教育の場と、養護の場。この2つの分かれ道が、のちの幼稚園と保育所という日本の制度にどうつながっていくのか。ここでは、二層構造が明治15年から17年に、行政の方針として示されていたという事実だけをお伝えします。




200園を超えても、修了した子は約1%

では、幼稚園はその後、どれくらい増えたのか。『学制百年史』の記述です。


明治十九年に四〇園に満たなかった幼稚園は、二十年には六七園となり、毎年二〇ないし三〇の増加をみせ、二十年代の終わりには二〇〇園をこえた。

時期

幼稚園の数

明治19年(1886年)

40園に満たない

明治20年(1887年)

67園

明治20年代の終わり

200園を超える

40園に満たなかったところから200園を超え、5倍以上になりました。順調な普及と言いたくなる数字ですね。

ところが、同じ『学制百年史』が続けてこう書いています。


この結果、三十年には、小学校の一年生に入学した児童の約一%が幼稚園を修了している。

約1%。200園を超えても、1%なんです。

小学校に入る100人のうち、幼稚園を修了してきた子どもは1人。残りの99人は、幼稚園を経験していません。

第2回でお話しした「園児は上流階級の子女が大部分」という一文が、ここで統計として裏づけられます。幼稚園はこの時代、ごく限られた子どものための場所だったということです。




答えたのは、国ではなかった|明治33年の二葉幼稚園

さて、ここで少し時代を先に進めます。次回の第5回で扱う明治32年より、1年あとの話です。順番が前後しますが、今日の問い「貧しい家庭の子どもはどこへ行くのか」に、どう答えが出たのかを見てから、次回に進みたいと思います。

明治33年(1900年)1月 6日。東京市麹町区の貧困地域に、1つの幼稚園が開かれます。名前は「二葉幼稚園」です。

開いたのは、野口幽香(のぐち ゆか)と森島峰(もりしま みね)という2人の女性。この2人がどこで働いていたか。華族女学校の幼稚園です。華族、つまり日本でいちばん恵まれた家庭の子どもたちを保育していた人たちでした。

記録には、2人は永田町で華やかな教育にあたる一方、近所の貧しい家庭の子どもたちが一日中道端で過ごすのを目の当たりにしていた、とあります。昼は華族の子どもを保育し、帰り道に道端の子どもを見る。その落差を、毎日見ていたわけですね。

なお、森島峰は津田梅子の世話でアメリカに留学し、カリフォルニアで、都市の貧しい人々への無償の幼児教育を学んでいたとされています。

2人が開いた園は、麹町区下六番町の小さな借家。園児6名、保母1名からの出発でした。設立趣意書には、こうあります。


二葉をして生育せしめ、愈々茂り益々栄えしめ、幾多の貧児が此の蔭に世の風雨を避けて、安らかに生ひ立つを得しむる

二葉を育てて、いよいよ茂り、ますます栄えさせ、多くの貧しい子どもたちがその陰で世の風雨を避けて、安らかに育っていけるようにする。


これは幼稚園の姿か

そして、この園の保育の形を見てください。事典には、当時の幼稚園が中流以上の子どもの保育に傾いていたのに対して、貧しい家庭の子どもをよい環境において教育することは大人の義務である、という考えに立った、とあります。


  • 3歳以上の幼児が対象

  • 1日7〜8時間の保育

  • 休日は、日曜・祝祭日と年末年始だけ

  • これによって、父母の労働を助けた


1日7〜8時間。休みは日曜と祝祭日、年末年始だけ。父母の労働を助けた。

これ、幼稚園の姿でしょうか。保育所の姿ですよね。

実際、この二葉幼稚園は、大正5年(1916年)に「二葉保育園」へと名前を変えます。幼稚園という名前で始まった場所が、保育園になったのです。

明治15年に文部省が示した簡易幼稚園の構想に、民間の2人の女性が、18年後にこういう形で答えを出したわけですね。




今日のまとめ


  1. 明治12年の教育令で、幼稚園は学校と区別され、書籍館と同じ並びに置かれました。学校の体系の外です

  2. それでも、設置・廃止・保育法には認可や届け出が求められました。『学制百年史』はこれを、学校と別個のものとしながらも、学校と同様に扱ったもの、と評しています

  3. 明治15年 12月、文部省は簡易幼稚園を奨励しました。対象は、貧民力役者等の子どもで、父母がその養育を顧みる暇のない者。今の言葉なら「保育を必要とする子ども」です

  4. 明治17年 2月には、学齢未満の幼児を小学校に入れることを禁じ、幼稚園の方法で保育するよう達しました。そして明治30年、小学校1年生のうち幼稚園を修了していたのは約1%でした


ひとことで言うと、こうなります。

幼稚園は学校の外に置かれ、そして行政の方針として2つに分けられた。上流階級のための幼稚園と、働く親のための簡易幼稚園に。




次回は明治32年「幼稚園保育及設備規程」

次回の第5回は、明治32年(1899年)の「幼稚園保育及設備規程」です。幼稚園に関する、初めての単独の法令が生まれます。

そこで保育項目は4つに絞られ、恩物は「手技」という1つの項目の中に収められ、しかも項目のいちばん最後に置かれます。第1回でお約束した矢印の、2本目を回収する回です。

恩物中心の保育は、なぜ批判されるようになったのか。倉橋惣三、東基吉、和田実。この3人の名前が、いよいよ登場してきます。




収録を終えて

明治が始まって、まだ江戸幕府が終わってから10数年という時期のお話でした。

世の中全体としては、富国強兵の時代です。西洋の国々がアフリカを植民地にし、いよいよアジアに押し寄せてくる。その中で日本は、西洋に学んで追いつけ追い越せと、強い国にしようと先人たちが動いていきました。文化がどれだけ発展しているかが国の力として問われたので、幼稚園のような西洋式のものも、どんどん入ってきたのだと思います。

その一方で、方針はあっても、人々の生活や現実は江戸時代からそれほど変わっていません。子どもを預ける場所が必要だったり、幼稚園というものも必要だったり。世の中の実態に合わせて、いろいろなものができてきたんだな、と改めて思います。

この時代に生きた人たちも、目の前のことを精一杯やりながら、今の現状に何が必要かを一生懸命考えて、そこになかったものを作り出してきた。そういう歴史が、この中に隠れているのだと思います。

私たちも、過去に頑張ってこられた方々の上に立っています。次の世代へバトンを渡せるように、今の時代でできることを精一杯やっていきたいと思います。




「幼稚園と保育所、同じ子どもを見ているのに考え方がそろわない」と感じている園長・主任の先生へ

今日見てきたように、幼稚園と保育所の考え方の違いは、明治の制度の分かれ道から始まっています。こども園や、幼稚園・保育所の両方の経験を持つ職員がいる園では、「教育」と「養護」のどちらに軸を置くかで、職員どうしの考えが食い違うことも少なくないと思います。

すずらんチャイルドケアの保育士等キャリアアップ研修は、オンデマンドの講義と、全国の保育者と語り合うZoomの交流を組み合わせた研修です。

受ける前

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教育と養護、どちらを大事にするかで職員の考えがばらばら

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