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幼稚園教育要領の歴史と今【第6回】幼稚園令で幼稚園が独立した日|大正15年、実現しなかった3歳未満児条項

12 時間前
読了時間: 14分

まずは解説動画をご覧ください(約28分)


▲ 大正15年(1926年)、幼稚園令によって幼稚園がついに独立した日と、そのとき条文の中に置かれた「3歳未満児」のゆくえをたどります。




第1部の最終回、幼稚園がついに独立する

今回は、このシリーズの第1部、前半の歴史パートの最終回です。

前回の第5回は、明治32年から明治44年をたどりました。幼稚園に関する初めての単独の法令、幼稚園保育及設備規程ができ、保育項目が4つになり、恩物は「手技」の中に一括化されましたよね。ところが12年後、文部省は自らその保育事項を法令から削除します。「保育ノ本旨ヲ誤ルノ虞」があるからと。

今回は大正15年。ついに幼稚園が独立します。

第4回でお話ししたとおり、明治12年に幼稚園は学校の外に置かれました。そして第5回では、せっかく得た単独の法令が、翌年には小学校令の中に吸収されてしまいました。それがようやく、自分の法令を持つんです。

ただ、その独立の瞬間に、もう1つのことが起きていました。3歳未満の子どもが、「幼稚園ではないもの」として法令の中に位置づけられるんですね。




幼稚園令は、現場の声が動かした法令だった

まず、この幼稚園令がどうやって生まれたのか。『学制百年史』には、幼稚園が普及してくると、幼稚園を制度面でも充実させることを求める声が盛んになった、とあります。

時期

できごと

各地

保育会や保育研究大会で、協議事項や建議事項として取り上げられる

大正10年

第3回全国幼稚園関係者大会と、帝国教育会主催の全国保育者大会が、幼稚園令と幼稚園令施行規則を制定すべきことを宣言として採択

大正11年〜

帝国議会に対して、幼稚園令制定についての陳情が行われる

大正14年

第50回議会で、貴族院と衆議院の両院が、幼稚園令と同施行規則に関する建議書を議定・採決

前回のことを思い出してください。明治31年、フレーベル会が文部大臣に建議書を出しましたよね。

その明治31年から大正14年まで、現場が声を上げ続け、大会で宣言し、議会に陳情し、ついに衆議院と貴族院の両院を動かしました。幼稚園令は、そうやって生まれた法令だったんですね。




文政審議会への諮問7項目と答申

そして大正14年 12月、内閣総理大臣が文政審議会に「幼稚園令制定ノ件」を諮問します。

用語を2つ。「文政審議会」は、文教政策について内閣総理大臣の諮問に答える会議体です。今でいう中央教育審議会にあたる役割です。そして「諮問(しもん)」とは、意見を求めることです。

諮問された項目は、全部で7つありました。

項目

中身

一

幼児の心身を健全に発育させ、善良な性情を涵養し、とくに家庭教育を補うこと

二

市町村・町村学校組合・私人が幼稚園を設置できること

三

地方長官が必要と認める場合は、市町村などに幼稚園の設置を命じ得ること

四

独立して設置するほか、小学校に附設できること

五

入園は満3歳から尋常小学校入学までとし、必要により3歳未満の幼児も収容し得ること

六

保母は、なるべく師範学校卒業程度と同等以上の学力を有する者を充てること

七

設置基準は大綱を示すにとどめ、土地の状況に適応させて設置を容易にすること

この第三項と第五項が、翌年 1月の答申で動きます。


第三項は削除|「強制はおだやかでない」

大正15年 1月、文政審議会が答申を出します。

まず第三項、地方長官が市町村に幼稚園の設置を命じる、という項目。これは削除されました。地方長官が市町村に強制することは、おだやかでない、という意見が強かったためです。

国や県が、市町村に「幼稚園をつくれ」と命令するのは行き過ぎだ、という判断ですね。

これは大きな分かれ道だったと思うんです。もしこの項目が残っていたら、市町村に幼稚園の設置義務が生まれていたかもしれません。ただ、そうはならなかった。だから幼稚園は、その後も私立が中心の世界として広がっていきます。


第五項は承認|ただし「厳密には幼稚園と呼ぶことはできない」

そして第五項、3歳未満の幼児も収容し得る、という項目。これは承認されました。ただし、承認の理由が問題なんです。


三歳未満の幼児を保育する部門は厳密には幼稚園と呼ぶことはできないから、その附設機関として勤労者家庭の便宜に供しようとするものである

もう一度言いますね。「厳密には幼稚園と呼ぶことはできない」。

3歳未満の子どもを保育する部分は、幼稚園そのものではない。幼稚園に附設される機関である。そしてその目的は、働く家庭の便宜を図ることである。そういう理解のもとで承認されたわけです。

強制はできない。3歳未満児は幼稚園ではない。この2つの判断が、日本の幼児教育の輪郭を決めました。




大正15年 4月 22日、幼稚園令

そして大正15年 4月 22日、勅令「幼稚園令」が制定されます。同じ日に、幼稚園令施行規則も定められました。『学制百年史』には、こう書かれています。


ここにおいてわが国ではじめて、幼稚園に関して独立した勅令が公布されたのであった。

用語を1つ。「勅令(ちょくれい)」は、天皇の名において出される命令で、法律に準じる強い効力を持ちます。第5回でお話しした文部省令よりも、格が上です。

明治9年の開園から50年。幼稚園は、ようやく自分の法令を持ちました。全14条からなる勅令です。


第一条|家庭教育を補う

第一条を見てみましょう。


幼稚園ハ幼児ヲ保育シテ其ノ心身ヲ健全ニ発達セシメ善良ナル性情ヲ涵養シ家庭教育ヲ補フヲ以テ目的トス

幼児を保育して、その心と体を健全に発達させ、善良な性情、つまりその子の持ち味やものの感じ方を養い、そして家庭教育を補う。

この「家庭教育を補う」が大事なところです。幼稚園は、家庭の代わりではないんです。家庭を補うものとして定められたんですね。

第1回を思い出してください。フレーベルはなぜ「庭」という言葉を選んだのか。子どもは庭の花のように育つからでしたよね。家庭という土に根を張った子どもを、幼稚園という庭が補って育てる。そういう関係として書かれているわけです。




3歳未満児条項のゆくえ

さあ、今日の山場です。3歳未満児の条項です。幼稚園令の第六条には、こうあります。


幼稚園ニ入園スルコトヲ得ル者ハ三歳ヨリ尋常小学校就学ノ始期ニ達スル迄ノ幼児トス但シ特別ノ事情アル場合ニ於テハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ三歳未満ノ幼児ヲ入園セシムルコトヲ得

入園できるのは、3歳から小学校に上がるまでの幼児。ただし特別の事情がある場合には、文部大臣が定めるところにより、3歳未満の幼児を入園させることができる。

『学制百年史』は、この規定についてこう評しています。


これは幼稚園に保育所的性格をもたせようとした方針によるものであった

保育所的性格。文部省の公式の歴史書が、そう書いているんですね。

同じ日に出された文部省の訓令では、外国の実例を見ると、幼稚園に孤児を預かるところを附設しているものが少なくなく、そのために特別の事情がある家庭に与える益は非常に大きいようだ、と述べたうえで、こう続けています。


事情ノ許ス限リニ於テ適当ニ之ヲ実施スルハ当今ノ時勢ニ照ラシ亦極メテ必要ナリト信ス

事情の許す限り、適切にこれを実施することは、今の時勢に照らして極めて必要であると信じる。


「この趣旨は、実際には実現しなかった」

『学制百年史』も、幼稚園に保育所的な役割をあわせ持たせようとしたことは、幼稚園令の大きな特徴であった、と書いています。

ところが、そのすぐあとにこう続くんです。


この趣旨は実際には実現しなかった。

実現しなかった。第1回で、同じ言葉を聞きましたよね。明治5年の学制に書かれた「幼稚小学」も、実現をみなかったんです。

では、なぜ実現しなかったのか。『学制百年史』は理由を書いていません。ですから断定はできません。

ただ、ヒントは先ほどの答申にあると思うんです。「三歳未満の幼児を保育する部門は厳密には幼稚園と呼ぶことはできない」。法令をつくる側が、最初からそう考えていた。幼稚園ではない、附設の機関である、と。

第4回を思い出してください。明治15年、文部省は本格的な幼稚園と簡易幼稚園という2本立てを示しましたよね。上流階級のための場と、働く親のための場に分けられました。

そして大正15年、幼稚園が独立を勝ち取ったその日に、二層構造は条文の内側にもう一度書き込まれたわけです。


保育項目に「観察」と「等」が入った

保育の中身も見ておきましょう。幼稚園令施行規則によって、保育項目は次のように定められました。

明治32年

大正15年

遊嬉・唱歌・談話・手技

遊戯・唱歌・観察・談話・手技等

前回お話しした明治32年の4項目と比べてみてください。変わったところが2つあります。1つ目、「観察」が加わりました。2つ目、最後に「等」という文字が入りました。

『学制百年史』は、これによって保育内容に自由さが増し、小学校と違う幼稚園教育の特色が一層発揮されることになった、と評しています。

同じ日の文部省訓令にも、はっきりこう書かれています。


尚従来ノ如ク項目ニ限定セス当事者ヲシテ学術ノ進歩実際ノ経験ニ応シテ適宜工夫セシムルノ余地ヲ存シタリ

これまでのように項目に限定せず、現場の人が学術の進歩と実際の経験に応じて、適宜工夫できる余地を残した。

お気づきでしょうか。前回、明治44年の改正で「約」という一文字が入った話をしましたよね。「40人以下」が「約40人以下」になった。現場に幅を渡す一文字でした。そして今回は「等」。国が現場に幅を渡す流れの、2つ目なんですね。

なお、幼児数の規定は据え置かれました。1園120人以下、特別の事情があるときは約200人まで。保母1人が保育する幼児数は約40人以下。明治44年のままです。




倉橋惣三と、竹籠に入れられた恩物

さて、今回の最後に、この時代を代表する1人を紹介させてください。倉橋惣三(くらはし そうぞう)です。

静岡に生まれ、東京帝国大学で哲学を学び、大学院で児童心理学を修めた人です。大正2年に東京女子高等師範学校の講師となり、大正6年に教授、そして同校の附属幼稚園の主事、つまり今の園長にあたる立場に就任します。

東京女子高等師範学校附属幼稚園。第2回で扱った、日本最初の幼稚園ですね。名前が変わっていますが、同じ園です。

この倉橋惣三が主事になったとき、何をしたのか。研究には、こう記されています。


園創立以来、遊戯室の正面にかけてあったフレーベルの肖像を引き下ろして職員室の壁に移し、同じく園創立以来恭しく整然と取り扱われてきた20恩物を、園児が遊具(積み木)として自由に遊べるよう系列をごちゃごちゃにして竹籠に入れた

研究では、よく知られたエピソードである、と記されています。

フレーベルの肖像を正面から外す。恩物を、わざとごちゃごちゃにする。当時の保母さんたちは、どう思ったでしょうか。

でも、これはフレーベルへの裏切りではないんです。むしろ逆です。

第1回でお話ししたとおり、フレーベルの恩物は、子ども自身が進んで活動するようにつくられたものでした。それが日本では、決まった順序で扱う教材になっていた。倉橋は、フレーベルの精神に戻すために、フレーベルの肖像を下ろしたわけですね。


「定型と機械化とによって、幼児のいきいきしさを奪う幼稚園を慨く」

倉橋自身の言葉があります。『幼稚園真諦(ようちえんしんてい)』の序に、こうあります。


定型と機械化とによって、幼児のいきいきしさを奪う幼稚園を慨く

動画では、同じ序にあるフレーベルの精神を忘れてその方法だけを伝統にしてしまった幼稚園を疑う、という言葉もあわせてご紹介しました。強い言葉ですね。

そして倉橋は、「誘導保育」という考え方を打ち立てます。子どもが持つ、自らのうちに育つ力を大切にし、子どもが自発的に自由に遊ぶ中で自己充実を目指す。大人がすることは、教え導くことではなく、その自己充実のために刺激を与え、環境を構成することだ。そう説いたとされています。

環境を構成する。「環境を通して行う教育」という言葉が、正式に幼稚園教育要領に入るのは、平成元年です。これは第11回で扱います。倉橋は、それよりずっと前に、もうそう言っていたわけなんですね。


矢印の3本目を回収

第1回で張った矢印の、3本目を回収します。

恩物 → 明治10年、幼稚園規則の科目へ → 明治32年、「手技」の中へ → そして大正6年、竹籠の中へ。




今日のまとめ


  1. 大正15年 4月 22日、勅令第74号「幼稚園令」が制定されました。わが国で初めて、幼稚園に関して独立した勅令が公布されたのです。明治31年のフレーベル会の建議から、現場が動かした法令でした

  2. 第一条は、幼稚園の目的を「家庭教育ヲ補フ」と定めました。家庭の代わりではなく、家庭を補うものとして

  3. 3歳未満児の入園を認める規定が入りました。『学制百年史』はこれを、幼稚園に保育所的性格をもたせようとした方針と評しています。しかし、この趣旨は実際には実現しませんでした。文政審議会の答申は、3歳未満児を保育する部門を「厳密には幼稚園と呼ぶことはできない」附設機関として理解していました

  4. 保育項目は遊戯・唱歌・観察・談話・手技等。「観察」が加わり、「等」の一文字が入って、現場が工夫する余地が残されました


ひとことで言うと、こうなります。

大正15年、幼稚園はついに独立した勅令を得た。しかし同時に、3歳未満の子どもは「幼稚園ではないもの」として法令の中に置かれた。

これで、第1部の前史パートが終わります。明治9年の開園から大正15年の独立まで、50年の道のりを追ってきました。




次回から第2部|「戦時下、幼稚園と託児所の差は消えた」

次回の第7回からは第2部です。タイトルは「戦時下、幼稚園と託児所の差は消えた」。

『学制百年史』には、戦時体制にあって、とくに戦局が重大化してくると、幼稚園と託児所の差はほとんどなくなり、両者を一丸として国策に協力しようという機運が高まった、という一文があります。

差がなくなった。今回まで6回かけて見てきた二層構造が、戦争によって一度、事実として消えるんです。幼稚園が保育所に転用された記録も残っています。




収録を終えて

第6回で、ようやく幼稚園が法令としてできあがりました。とても長い道のりでした。1840年から始まったこのシリーズで、まだ幼稚園教育要領ははっきりとはできていませんが、やっと法律ができたところまで来ました。

保育所保育指針の歴史と比べると、こちらは歴史がずっと長いことが分かります。ですから、その源流から学んでいって、今の幼稚園教育要領までどうつながってきたのかを、第7回からまた1つずつ説明していきます。ぜひ第1回からご覧いただくと、大きな流れが見えてくると思います。

このシリーズは、保育所保育指針の改定で、幼稚園教育要領やこども園の要領とより一体的になっていくことを受けて撮影しています。保育所保育指針の歴史はすでにお届けしました。今度は幼稚園教育要領を過去からたどって、なぜ今この形になっているのかを知ることで、これからの未来をより深く理解できるのではないかと思っています。

幼稚園やこども園にお勤めの方は、ぜひこのシリーズをご覧ください。8月には改定の取りまとめ案も出ましたので、あわせて歴史からたどって見ていくと、また景色が変わってくるのではないかと思います。




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