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幼稚園教育要領の歴史と今【第7回】戦時下、幼稚園と託児所の差は消えた|軽視されなかった、しかし

32 分前
読了時間: 13分

まずは解説動画をご覧ください(約24分)


▲ 昭和13年(1938年)から昭和20年(1945年)、戦時下で幼稚園と託児所の差が消えていった経緯をたどります。




第2部の始まり|戦争で、幼稚園は潰されたのか

今回から、第2部に入ります。

前回の第6回で、第1部の前史パートが終わりました。明治9年の開園から、大正15年の幼稚園令による独立まで、50年の道のりでしたよね。そして幼稚園令には3歳未満児の入園を認める規定が入りましたが、その趣旨は実際には実現しませんでした。

今回は、そこから戦争へ向かう時代です。昭和13年から昭和20年まで。

正直に申し上げます。私はこの回を調べる前、「戦争で幼稚園が潰された話」だと思っていました。

ところがです。一次資料を読みましたら、まるで逆のことが書かれていたんですね。『学制百年史』には、こうあります。


戦争の影響をうけて幼児教育が軽視されることはなく、かえって幼児を保護する見地から保育機関が重視された。

軽視されなかった。かえって、重視された。では、なぜ重視されたのでしょうか。今回は、その「なぜ」を追いかけていきます。




昭和13年、教育審議会の答申は「幼稚園を増やせ」

話は昭和13年 12月にさかのぼります。教育審議会が「国民学校、師範学校及幼稚園ニ関スル件」について答申を出します。

用語を1つ。「教育審議会」は、内閣総理大臣の諮問を受けて、教育制度全体を審議した機関です。前回の第6回でお話しした文政審議会とは別の機関ですので、混同しないようにしてください。

この答申のうち「幼稚園ニ関スル要綱」として、4つの項目が並びます。

項目

原文

今の言葉で

一

幼稚園ノ設置ニ付一層奨励ヲ加フルト共ニ特別ノ必要アル場合ハ簡易ナル幼稚園ノ施設ヲ認ムルコト

幼稚園をつくることを、これまで以上に後押しする。あわせて、特に必要があるときは、設備や体制を簡単にした幼稚園も認める

二

幼児ノ保育ニ付テハ特ニ其ノ保健並ニ躾ヲ重視シテ之ガ刷新ヲ図ルコト

幼児の保育では、特に健康を守ることと、しつけを大切にして、保育のあり方を新しく改める

三

保姆ニ付テハ其ノ養成機関ノ整備拡充ニ力ムルト共ニ其ノ待遇改善ヲ図ルコト

保母については、保母を育てる学校などをしっかり整えて増やすとともに、保母の給料などの待遇をよくする

四

幼稚園ト家庭トノ関係ヲ一層緊密ナラシムルト共ニ之ニ依リ家庭教育ノ改善ニ稗益セシメ、併セテ幼稚園ノ社会的機能ノ発揮ニ力メシムルコト

幼稚園と家庭のつながりをもっと深め、それによって家庭での子育て(家庭教育)がよりよくなるよう役立てる。あわせて、幼稚園が地域や社会の中で果たす役割を発揮できるようにする

いかがでしょうか。戦争前夜の答申とは思えない内容ですよね。

とくに3つ目です。保母の養成機関の整備拡充と、待遇改善。

保育者の待遇改善という論点は、昭和13年から同じ言葉で存在し続けていたわけですね。



なぜ、幼稚園を増やそうとしたのか

では、なぜ幼稚園を増やそうとしたのか。答申は、その意図をはっきり書いています。


幼児保育ノ国家的重要性愈々加ハレル今日、国家トシテ益々之ガ普及発達ニ意ヲ用フルコトガ肝要

幼児保育の国家的な重要性がいよいよ加わってきた今日、国として、ますますその普及と発達に意を用いることが肝要である。

国家的な重要性。ここは注意して読んでいただきたいところです。『学制百年史』は、この答申の目的をこう説明しています。


父母ともに労働に従事する家庭の子どものために、設置を容易にし、簡易な季節的幼稚園をも設けうる道を開こうとしたもの

父母ともに労働に従事する家庭。お気づきでしょうか。


簡易幼稚園が、56年ぶりに戻ってきた

第4回を思い出してください。明治15年、文部省は簡易幼稚園を奨励しました。対象は「貧民力役者等の子どもで父母がその養育を顧みる暇のない者」でしたよね。

56年後、同じ「簡易な幼稚園」という言葉が戻ってきたんです。ただし、動機が違います。


明治15年

昭和13年

出発点

貧しい家庭の子どもを、どうするか

父母ともに働いてもらう必要がある

発想

行き場のない子どもの受け皿

子どもを預かる場を増やす

そしてもう1つ、答申には保育内容についての方針も書かれています。


徒ラニ知的負担ヲ多クスルガ如キハ厳ニ戒シメ、躾ヲ重視シ

むやみに知的な負担を多くするようなことは厳しく戒める。そして躾(しつけ)を重視する。

知的負担を増やさない。これは、第5回でお話しした明治44年の「保育ノ本旨ヲ誤ルノ虞」と同じ方向の言葉ですね。ただ、「躾を重視」がこの時代に何を意味したかについては、資料に説明がありません。ここは断定を避けておきます。




昭和16年、整えられた制度と「授業中止」の予告

答申から3年後の昭和16年。この年に、2つのことが起きます。

まず3月、幼稚園令が改正されます。翌4月には幼稚園令施行規則も改正されました。その内容は、公立幼稚園の職員について、進退、服務、懲戒処分、免許状褫奪(ちだつ)、俸給、旅費などの規定を新たに設けた、というものです。

用語を1つ。「褫奪」とは、取り上げる、剥奪することです。「免許状褫奪」は、免許を取り上げる処分のことです。

俸給と旅費の規定が入ったのは大きいんです。給料と交通費のルールが、法令に書かれたということですから。昭和13年の答申にあった「待遇改善」が、形になったと見ることができます。

さらに昭和18年 3月には、師範学校が道府県立から官立になった結果、女子師範学校の附属幼稚園もすべて官立に変わりました。第2回で扱った、あの東京の幼稚園の流れも含めてです。

ところが、同じ昭和16年の10月です。文部省は「学校防空緊急対策」に関する通牒(つうちょう)を出し、こう指示しました。


幼稚園については空襲の危険の切迫とともに一定期間授業を中止することあるべきこと

用語を1つ。「通牒」とは、役所が下の機関に出す通知のことです。今でいう「通知」にあたります。

同じ年に、3月には職員の給料や旅費のルールを整え、10月には空襲が迫ったら園を閉めることがあると指示した。整備と、閉鎖の予告。それが同じ年に並んでいるわけです。




昭和18年、戦時下で幼稚園と託児所の差は消えた

そして昭和18年(1943年)。今回の山場です。『学制百年史』の一文です。


戦時体制下にあっては、特に戦局が重大化してくると、幼稚園と託児所の差はほとんどなくなり、両者を一丸として国策に協力しようという気運が高まった。

幼稚園と託児所の差は、ほとんどなくなった。

このシリーズで6回かけて追いかけてきた二層構造ですね。明治15年に文部省が分けた、本格的な幼稚園と簡易幼稚園。上流階級の場と、働く親の場。その差が消えた、と書かれているんです。

では実際に、何が起きたのか。『学制百年史』には、具体的な例が挙げられています。

時期

どこで

何をしたか

昭和18年 1月

福岡県

「生産増強対策ノ一途トシテ幼稚園ノ施設ヲ保育所ニ転用スルノ件」という通牒を出し、3万円近い経費で幼稚園を保育所に転用

昭和18年 2月

東京都

65万円で、都内100か所に戦時託児所を設けることにした

昭和18年 3月

文部省

高等女学校に幼稚園または託児所を付設することを勧め、必要な補助金を交付

福岡県の通牒の名前を、もう一度見てください。「生産増強対策ノ一途(いっと)トシテ」。生産を増やすための1つの手立てとして、と読み換えられます。幼稚園を保育所に変えるんです。

幼児のためではないんです。生産のためなんです。

そして、高等女学校の中に幼稚園や託児所をつくる。第2回でお話しした「保育者を育てる実習の場」という設計が、ここでも使われているわけです。




軽視されなかった、しかし

ここで、冒頭の一文に戻ります。


以上のように、戦争の影響をうけて幼児教育が軽視されることはなく、かえって幼児を保護する見地から保育機関が重視された

そして『学制百年史』は、その中身として、保育時間を延長したり、勤労家庭の幼児を優先的に受け入れたり、教育よりも保護を重視する見地から戦時託児所に切り替えるところが多くなった、と書いています。


  • 保育時間の延長

  • 勤労家庭の幼児を優先

  • 教育よりも保護を重視


これ、今の保育所の姿ですよね。保育を必要とする家庭の子どもを優先的に受け入れる。長時間の保育を行う。今の制度が持っている性格が、この時期に、幼稚園の側から立ち上がってきているわけです。


統合が実現したのではない

ここで、大事な整理をさせてください。

二層構造が消えたのは事実です。でも、それは「統合が実現した」わけではありません。幼稚園と保育所という2つの流れが話し合って、いいところを持ち寄って1つになった、という話ではないんですね。

片方に寄せられただけです。教育の側から、保護の側へ。そして、寄せた理由は幼児のためではありませんでした。母親に働いてもらうためでした。

私はここを、批判として言っているのではありません。当時の人たちには、当時の切迫感があったはずです。ただ、二元化していたものが1本になる瞬間が、こういう形だったという事実は、覚えておきたいと思うんです。

なぜ一体化するのか。その理由が、子どものためであるかどうか。

令和9年度の改訂に向けて、3つの要領と指針が一体的なものへ近づいていく今(【番外編】8月の取りまとめ案)。80年あまり前のこの出来事は、静かに、しかし重い問いを投げかけているように、私は思います。




そして、消えていった

では、幼稚園はどうなっていったのか。『学制百年史』には、こう記されています。


しかし戦局がいよいよ苛烈になってくると、空襲を受けた地域では、幼稚園や戦時託児所(戦時保育所)の多くが自然閉鎖の形をとった。

そして、昭和19年には217園、昭和20年には486園が廃止されました。

ここは数字の意味に注意してください。これは廃止された園の数です。残っている園の数ではありません。

年

廃止された園

昭和19年(1944年)

217園

昭和20年(1945年・終戦の年)

486園

終戦前の2年間で、700園あまりが消えたわけですね。


就園率は10%から7.5%へ

5歳児の就園率も見てみましょう。文部省『幼稚園百年のあゆみ』の巻末図から取った数字です。

年

5歳児の就園率

大正15年(幼稚園令の年)

6.0%

昭和6年

5.4%

昭和11年

6.6%

昭和16年

10.0%

昭和21年(1946年・戦後)

7.5%

昭和16年、幼稚園令が改正され、学校防空緊急対策の通牒が出た年に、就園率は10%に達していました。ところが戦後の昭和21年には、7.5%に落ちています。

第4回でお話しした、明治30年の「約1%」。そこからようやく10%まで来たところで、戦争がその歩みを押し戻したわけですね。

なお、東京都では昭和19年に幼稚園が閉鎖され、区部では昭和20年に幼稚園が皆無となった、と記録されています。これは国の資料ではなく、日本保育学会『日本幼児保育史』を出典とする記述です。




「自然閉鎖」という言葉

最後に、1つの言葉について考えさせてください。「自然閉鎖」です。

『学制百年史』は、空襲を受けた地域では、幼稚園や戦時託児所の多くが「自然閉鎖の形をとった」と書いています。

自然に閉鎖された。でも、自然に閉じる園なんてありませんよね。

園舎が焼けた。保母が動員された。子どもが疎開した。保護者が家を失った。そうやって通う子どもがいなくなり、保育する人がいなくなり、建物がなくなった。誰も廃止を決めていないのに、園が消えたんです。

だから「自然閉鎖」という言葉が使われた。行政の文書としては、正確な表現なのだと思います。廃止の手続きを経ていないわけですから。

ただ、このシリーズで私たちは、似た言葉に3回出会っていますね。

回

書かれていた言葉

明治5年の学制に書かれた「幼稚小学」は、実現をみなかった

第6回

大正15年の幼稚園令の3歳未満児条項は、実際には実現しなかった

第7回

戦時下の幼稚園は、自然閉鎖の形をとった

誰かが決めたものではない、という書き方です。

制度の歴史を読むとき、私はこういう言葉の前で少し立ち止まるようにしています。そこに、記録されなかった何かがあるからです。




今日のまとめ


  1. 昭和13年 12月の教育審議会答申は、幼稚園の設置を一層奨励し、保母の養成機関の整備拡充と待遇改善を図ることを求めました。戦争前夜に、保育者の待遇改善が答申に書かれていたのです

  2. その意図は「幼児保育ノ国家的重要性」でした。父母ともに労働に従事する家庭の子どものために設置を容易にし、簡易な季節的幼稚園の道を開こうとしたものです。明治15年の簡易幼稚園が、56年ぶりに別の動機で戻ってきました

  3. 昭和18年(1943年)、幼稚園と託児所の差はほとんどなくなりました。東京都は100か所に戦時託児所を設け、福岡県は生産増強対策の一つとして幼稚園を保育所に転用しました

  4. 『学制百年史』は、戦争によって幼児教育が軽視されることはなく、重視されたと記しています。その中身は、保育時間の延長、勤労家庭の優先、そして教育よりも保護でした


ひとことで言うと、こうなります。

戦争は、幼児保育を軽視しなかった。むしろ重視した。ただしそれは、母親を働かせるためだった。そして幼稚園と託児所の差は、望まれた形ではなく消えた。




次回は昭和22年、幼稚園が「学校」になる

次回の第8回は、昭和22年の学校教育法と、昭和23年の保育要領です。

戦争が終わります。そして幼稚園は、ついに「学校」になります。第4回を思い出してください。明治12年、幼稚園は教育令で学校と区別され、書籍館と同じ並びに置かれました。明治12年から続いてきたその状態が、ここで終わるんです。「保母」という呼び名も「教諭」に変わります。

そして翌年の昭和23年、「保育要領」が刊行されます。これは幼稚園だけのものではありません。保育所も、家庭も対象にした、たった1つの手引きでした。姉妹シリーズ「保育所保育指針の歴史と今」と、話が合流する回です。




収録を終えて

戦争前のところまで、これで進みました。私にとっても意外なところで、とても興味深い回でした。

保育と幼稚園教育の境目が、ある形でなくなったことは、実際に起きたことでした。ただそれは、ある意味で、母親を働かせるためでした。

これから、幼稚園・こども園・保育所の要領と指針が、より一体的なものになっていきます。それは、この時とは別の形での一体化です。ですから、こういう歴史も読み解きながら、これからの指針の改定に、時間を合わせていくような形でお届けしていきたいと思います。

ご覧になった感想を、ぜひコメントでお寄せください。




「園の役割が、教育なのか預かりなのか、職員の中でもぶれている」と感じている園長・主任の先生へ

戦時下、幼稚園と託児所の差は「子どものため」ではない理由で消えました。そして今、幼稚園・こども園・保育所は、今度は子どものために、より一体的なものへ近づこうとしています。

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